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テンヨのはなし

テンヨ武田と武田家との関わり

2016.04.01
テンヨ武田の歴史

当社、テンヨ武田の歴史を紐解くと、話は戦国時代までさかのぼります。

戦国時代の天文十年(1541年)、駿河今川家のもとで客分として暮らしていた武田信玄の父、信虎。

しかし、永禄三年(1560年)に今川義元が織田信長に桶狭間(おけはざま)の戦いに敗れると、信虎は駿河を追われ、京都へ向かいました。その際、息子信玄に諸国の内情を報ずべく、街道の拠点に一族を残し、情報網や兵站基地としました。

その中の特に重要な位置を占めたのが、東海道のはずれ、滋賀県甲賀郡水口村(現在の甲賀市)でした。

水口の地は、織田信長の養女が武田勝頼(信玄の息子)のもとへお嫁に行く際の化粧料として、武田家の所領となった土地です。この地を中心に、武田一族の要人が次々と配されるようになりました。

さらに、現在の水口町にある武田山長敬寺は、元亀2年(1570年)に武田信虎の五男信基と大井信常が同地に建立したお寺といわれています。織田から豊臣・徳川の動乱のさなか何度も戦火に遭いましたが、1779年に浄土真宗大谷派の寺として再興され、現在に至っています。今もお寺の住職は武田正信さんというお名前の方です。(一族の遠い親戚にあたるかもしれませんね)

その武田山長敬寺に居た武田家の一族、武田伝右衛門(でんえもん)は、幕末の頃、「先祖の地で一旗揚げよう」と甲斐の国に戻ります。しかし時代は維新前夜、すでに武士の時代は終わりを告げようとしていたため、彼は実業家への転身を図ります。戻った甲斐の国で頼りにした長沼弥右衛門も、すでに大黒屋という酒屋を営んでいました。そこで、伝右衛門は大黒屋の仲間、名取作右衛門から酒株を借り受け、酒造業を営み始めましたが、嘉永元年(1848年)に惜しまれつつこの世を去りました。

その後、父、伝右衛門の志を継いだ息子善兵衛が、明治五年(1872年)に、西山郡稲門村(現在の本社住所である甲府市幸町)で、大黒屋の布能庄太郎から醤油株を借りてしょうゆ醸造業を興しました。

これが、テンヨ武田のはじまりです。

※写真は、当時の本社の様子(稲門村)と明治期の勘定元帳